narumi-26の日記

心が軽くなるブログを目標に書いています。

フィンセント・ファン・ゴッホ 3

彼は美術学校には通わず、テオの知り合いのアントン・ファン・ラッパルトという画家と知り合います。
ラッパルトはフィンセントより5歳下の温厚。対照的な2人は凹凸を埋め合うように仲良くなります。

デッサンを繰り返し、様々な手法を試しながら、フィンセントは行き詰まりを感じる一方で確かな進歩も感じていました。

そして2度目の激しい恋と失恋を経験します。
周りとどうしても上手く交友が結べない孤独感。売春婦との出会いと別れ。
彼はその苦悩も不安も、すべてを絵画へぶつけていきます。

1884年フィンセントは両親がいるヌエネンに再び帰ってきます。突然帰ってきた息子に戸惑いながら両親はフィンセントのために広いアトリエを与えました。

ヌエネンにやってきたラッパルトと共に2年間で数百点の絵を絵描きます。
しかし、またもや突然、1885年にその全てを投げ捨て、フィンセントはルーベンスの絵を見たいと言って、アントワープに向かってしまいます。

アントワープルーベンスの力強い明るさをもつ絵を見て、いかに自分のパレットが暗かったかをフィンセントは痛感しました。
彼は絵画の基礎を学ぶためパリへ向かいます。
そこで、印象派の画家達と出会いデッサンを開始します。その絵は今までのような暗い色調は消え、色があふれていました。

ある日、テオからポール・ゴーガンという画家を紹介されます。
フィンセントより5歳年上のゴーガンはフィンセントと同じく日本の版画に興味があり、2人は意気投合しました。
印象派の技法や日本の浮世絵の影響でフィンセントのパレットはますます明るさを増していきました。

パリにきて2年。突然、フィンセントは南仏の街アルルに向かいます。
理由はよく分かっていませんが、日本に似た場所だから、というのが1番大きな理由だったようです。
光輝くアルルの地。ここで、フィンセント・ファン・ゴッホは滞在していた、たった15ヶ月間で200点に登る作品を生み出し、画家としてピークを迎えます。

アルルの地は、突然現れたフィンセントに優しくはありませんでした。
テオや友人に送った手紙も返事は殆ど返ってきません。
誰とも口をきかない日々。孤独感に押し潰されそうになりながら、色彩を変え、試行錯誤していきます。

1888年の夏。
輝くばかりの夏の陽射しの中で、彼は彼の分身ともいえる『ひまわり』を描き始めました。
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