narumi-26の日記

心が軽くなるブログを目標に書いています。

フィンセント・ファン・ゴッホ2

1876年、仕事が見つからないフィンセントに牧師が声をかけました。彼の経営する学校で生徒の面倒をみながら説教(教えを説いてまわること)をしてみないか、と。

フィンセントはろくに食事もとらず異常なまでの集中力で貧民区の中を説教に出かけ続け、とうとう病に冒されてしまいます。そして、オランダの実家に帰っていきました。
しかし、フィンセントは実家に帰ってからも寝食を忘れ聖書に没頭していきます。その頃、レンブラントの作品に出会い、レンブラントが遺した言葉を胸に牧師になるため大学進学への厳しい試験勉強を始めます。
全力を傾けて意思を貫こうとするフィンセント。

受験勉強は14ヶ月に及びましたが、必死の努力は無残な結果に終わってしまいました。

牧師になる夢を諦めきれずに、ブリュッセルの養成学校に通い始めますが、ここでも周りと合わせることができず伝道師失格の宣告を受けてしまいます。
自分の居場所を求め、彼は貧民街より悲惨な場所にたどり着きました。
ボリナージュ炭鉱。
報われない激しい労働。炭鉱の爆発による死の恐怖。賃金も殆ど得られない場所。
フィンセントは彼等のために尽くす決意をします。
そこでのフィンセントの評判を聞き付けたブリュッセルの伝道委員会が彼を伝道師に任命することに決定しました。
長年の念願が叶い、彼はますます貧しい人々の中に飛び込んでいきます。
自分の衣服や食糧、金、分け与えられるものは全て渡し、自分はボロボロの服を纏い、藁の上で寝る生活を続けました。
フィンセントは有毒ガスの爆発、坑道の落盤、チフスが大流行した時も1番に駆けつけ病に倒れることなく、食事もとらず看護し続けました。時に、医者が見放した患者すら命を救ったことも。
超人的なフィンセントの働きに人々から感謝の的になる一方で、ブリュッセルの伝道師達は、これが面白くなく、一方的にフィンセントを解任してしまいます。

傷ついたフィンセントを導いたのは牧師を目指すきっかけになったピーテルセン牧師でした。彼はフィンセントに絵を描いてみてはどうかと提案します。

1880年以降から弟テオとの書簡のやりとりの中で、フィンセントが画家の道を目指し始めた過程が遺されています。
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フィンセント・ファン・ゴッホ 1

フィンセント・ファン・ゴッホの代表的な作品、『ヒマワリ』の絵は全部で10枚。そのうち3枚は不明です。
そのゴッホのヒマワリの作品の中で特に、2020年に開催されたロンドン・ナショナル・ギャラリー展で注目を集めたのは4枚目のヒマワリの絵でした。
ずっと見たいと思っていた、この4枚目のヒマワリは今まで見たどの絵画より強烈に印象に残った絵になりました。
アルルの光輝く景色の中で描いたとされる作品。
一心に純粋な光だけを集めて凝縮させたようなヒマワリの絵。

ゴッホとはどんな画家だったのでしょうか。

フィンセント・ファン・ゴッホは37歳という若さで命を絶つまで、画家としては僅か10年の間に脅威的な多くの作品を遺しています。
彼が生きている間、その殆どの作品が冷笑され、軽蔑され、目に留められることもなく無名のまま生涯を終えました。

生前、売れたのはたったの1枚。
何度も何度も自分を見つめ、自分の顔も描きました。その瞳に映る感情はなんだったのか。

『フィンセント』とは勝利者という意味があります。
彼はオランダではかなり名門の一族で、5人兄弟の長男として生まれました。
フィンセントはささいなことで突然かんしゃくを起こし爆発する少年で、手におえない問題児だったようです。
誰とも関わりあうことを嫌い、1人で野山を歩き自然を観察して過ごしていました。

弟のテオだけが、フィンセントの善き理解者でフィンセントを応援してくれていました。

フィンセントが16歳の頃、彼の扱いに悩んでいた父親のテオドルは息子を画商のもとで勉強させることにします。
すると、驚くほど、かんしゃくを起こすこともなく、熱心に画商の勉強に向き合うと称賛されるようなったのです。この頃から弟テオとの文通が始まります。後、ゴッホがテオに宛てた文通は生涯で650通を越えます。

1873年、フィンセントは働きぶりを認められロンドンに赴任しました。
自由な時間を存分に楽しみながら、イギリス絵画に目を向けていきます。
幸福な日々。
彼はウルスラという女性と出会います。
すっかり彼女に魅了されたフィンセントは1年思い悩み結婚を申し込みました。
しかし、返ってきたのは予想にもしない手酷い拒絶でした。
心に深い傷を負い、それは仕事にも大きく影響しました。勤務態度が急激に悪くなったフィンセントに対して失恋が原因だと知った店の実業家はフィンセントをパリに異動させることにします。
パリの華やかな雰囲気が傷を癒してくれるだろう、と考えたからでした。

しかし、フィンセントの勤務態度は変わらずに解雇。
それ以後、フィンセントは死ぬまで貧困の生活を送ることになってしまいました。

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本を読むことで得られる価値

本を読むのが好きです。

どれくらい好きかというと、時間が空くと書店で気になった本を片っ端から読みます。
新書なら1冊につき10分程で単語の拾い読みをします。単語の拾い読みとは、知りたい、もしくは興味があるテーマの単語だけを拾いながら読んでいくのです。

もっとしっかり読みたいと思った本はスマホのメモに書いて、図書館で予約します。
そうして十なん冊予約本のストックを作り、図書館で予約以外にも何冊か借りてカフェでノートを片手に読みます。気に入った本はまとめて買います。
要らなくなった本は図書館に寄贈して、必要になった時借りれるようにします。

ノートは私にとって、とても大事です。
読みながら気づいたことや思い浮かんだこと、アイデア、疑問点などを、どんどん書いていきます。
そうすることで、読んだ内容が記憶に定着しやすく、また考えながら読むことで新しいアイデアや発想が起きやすくなります。
ノートをあとで見返して、新たな気付きも生まれます。

少し前にはビジネス書や科学など難しくて私には到底理解できないものだと思っていました。その苦手意識を変えてくれたのはメンタリストDaigoさんの著作本でした。
とても読みやすかった。
(トリステン・ハーフェナーさんの本も同じくメンタリストという職業柄のせいか、内容が分かりやすく、読みやすいと思います。)

おかげで、そんなに難しいものではないと知り、むしろ面白いものだと非常に興味をもつようになりました。参考文献にも興味が湧き、あらゆる本を手にとるようになりました。

例えば、科学を理解しようとすると、倫理観や哲学が必要ですし、倫理観や哲学を理解するためには歴史や政治、宗教の知識が必要です。
難しい本も沢山あります。
私にはレベルが高過ぎてとても理解できないものもありますが、
知識が深まっていくと、自然と読める本のレベルも高くなっていきます。

人間関係がそうであるように本にもフィーリング、相性があります。
気になったらパラパラとめくって、相性がいい、読みやすいと感じる本を読んで行けば良いのです。

一流の作家は、難しい内容でも小学生が理解できるように説明することができるといいます。それは、その著者が深く噛み砕いて理解し単純明快に説明する高い能力の表れだということです。

現代はスマホを見れば、欲しい情報は簡単に取り出すことができます。
本を読まなくても知識は得られる。
なぜ、わざわざ本を読む必要があるのか。
それは、本1冊に含まれる圧倒的な情報量と質が違うからです。
スマホから得られる情報は「過程」はなく「結果」を素早く取り出すのに便利です。
だから、考える必要がない。
本は、その「考える力」を養う武器になるのです。

本を読み、考える。
小説なら登場人物たちの目線に立って、なぜ、このような台詞を話すのか、なぜこのような行動をとるのか。また、作者はなぜこのような物語を書いたのか、意図することは何なのか。
登場人物達の表の心情と裏の心情がちぐはぐでも、ちゃんと理由があったり。
理由を知ると、驚きと感動で世界がひっくり返ったような気持ちになることもあります。

作家は膨大な資料を調べ、その知識を基に一冊の本を仕上げます。
何時間何年間もかけて得た知識を凝縮したものが一冊の本になっているのです。

本を読むことで脳にとてつもない刺激が生まれます。
想像する、考える、五感をフル稼働で味わうことで、共感したり感動したり、未知の世界を体験できる。
一流の人の本を読めば、一流の人の思考に触れることもできます。
本を読むことで、表現力や語彙力、他者の視点に立って物事を考える、更には莫大な発想力も生まれます。
教養がある人、というのは得てして読書を得意とする人が多いように感じます。
(自分のことを褒めてほしいわけではなく尊敬する方々をみての感想です)

もし、どうしても活字を読むのが苦手だという方は、文字数が多い絵本から始めてみるのもいいかもしれません。
大人向きの絵本も素晴らしいものが沢山あります。
不安な夜など、心を癒してくれるかもしれません。

AIの登場で大きく変わっていく現代にあって、読書は欠かせない武器になっていくのではないでしょうか。

生と死の境界

生きるとは何かを考えていたら、何年か前に自殺しようとした時のことを思い出しました。

書いていることは重い内容ですが、5月晴れのような気持ちなので、しんみりしないで読んで戴けると幸いです(笑)

もう何年も前の話なのですが、建物の屋上から飛び降りようとしたことがありました。
あの頃、重度のうつ病もあり自分の脳ミソが壊れているのを自覚もしていて、おかしい自分の姿を冷静に見ているもう1人の自分がなんとか手綱を引っ張っている状態でした。

うつ病になると、人によって症状は違うかもしれませんが、世界が『サイレントヒル』。グロテスクな化け物はでてきませんが、黒いもやのようなものに取り囲まれ灰色まみれの世界はまさにサイレントヒルの世界でした。
眠れず食べれず、顔の神経が壊れたように表情を作ることができず、笑えばひきつり。常に急降下しているような感覚。

仕事はなんとか続いていたものの2年経ったある日、仕事帰りになんとなくフラりと上がったマンションの屋上のカギが開いていたんです。
眼下に見える車のライトや窓から漏れる明かりを見ながら、私には家族がいることを思い出しました。
私が自殺をすれば家族が、親族からも関わる沢山の人達からも『自殺した人間の家族』というレッテルを貼られて生きることになるかもしれない。
自分の苦しみ以上に家族は重い十字架を背負って生きることになるんじゃないか。

あと、ふつうに死ぬのが怖くなりました。
ホントに、手摺を離せば引き返せない状態でぷらんとしていたんです。

引き返せない、てホントに怖いことです。
死ぬ時の恐怖心は、人が想像できる範疇を越えています。『想像を絶する恐怖』とはこのことかと。
何がなんでも、どんな目にあっても生きてる方がいい、と心の底から思いました。

死と生の境目。
それは、重量がひっくり返ってまっ逆さまに宇宙に落ちるような感覚に似ていると思いました。…分かりづらいですね。
もし、良かったら、よく晴れた日に公園に寝転んで、じっと空の向こうを見つめてみてください。ずっと見つめ続けると空に引きづりこまれそうな感覚になります。体験してみてください。
無意識に地上から身体が離れないように、身体が固く緊張すると思います。
死は怖いです。

人生は一生の全体を見るまで、どんなものかは分からないんだと思います。
人生の大半が苦しいものでも、最後の数年で素晴らしい体験ができるかもしれない。
この人に会うために今までの人生があったんだ、と思えるような出会いがあるかもしれない。
あくまで、仮定で良くなる悪くなるとも誰にも分かりません。

生きていく人生によって、どんな気持ちで死んでいくのかあらかた決まるのではないだろうかと思うんです。
悪口や愚痴が多い人生を歩んだなら、死ぬ時も愚痴をいうことなりそうです。
愛しい、幸せだと口に出すことが多かった人生なら死ぬ時も、愛しい、幸せな時を思い返して死んでいくのではないでしょうか。
生と死は裏表合わせ。
共にセットで人生です。


ちなみに、人は死を異避します。
死体に平気で触れられる人はそういないはず。生存させる為に、死を嫌悪するようにインプットされているからだそうです。

…という話を思い出したのは、部屋で見つけた虫の死骸を見つけたせいです。

ギャァ────(艸Д<; )────ァァ!!

枯れたオリーブとフードファイター

今住んでいる場所に引っ越してきた時、悪いものを追い払う神聖な木だと聞いて、オリーブを購入し育てていました。

基本的に室内ですが、天気のいい日は外で光をあて水をやり大切に育てていました。
どんどん大きくなり、立派に育っていきました。
ーーあの日までは。

ある日、天気がいいので日光浴をさせていて、そろそろ室内にいれようとした時です。
オリーブの木に、6センチ程の巨大な虫。。(⊙︎ロ⊙︎)
すでに木の葉の半分程をモッシャモッシャ食べていたのです。
体長も大きいし横幅も横綱級。
いったい、どっからやってきたんだ!Σ( ̄□ ̄;)

あまりの大きさに近寄ることもできず、とりあえず去ってくれるのを待つことにしました。
それが自殺行為とも知らず…。

その晩は強風が吹き荒れていました。
窓ガラスがガタガタ音を立て、風鳴りがうなりをあげていました。
オリーブの木がどうなっているか心配でしたが、怖くて見に行けず …。

そして翌朝、虫はどこかに飛ばされたのか、いなくなっていました!

全ての葉とともに(⊙︎ロ⊙︎)!!?!
葉は一枚も残らず、裸一貫の姿になっていたのです(涙)

あんなに元気に生い茂っていた葉を全て食い尽くして、またどこかへ旅立った虫。
どんだけ食いしん坊だったんだ!

その後、土を変え肥料をやり、園芸店に相談したりしましたが、打つ手なし。
オリーブは葉を全て落とすと、もうダメとのこと…。

実は、それでもまだ死んではいないのではないかとオリーブの木はそのまま室内に入れてあります。(捨てられない。そして外にも出せない)

それにしても。
いくら横綱級でも、結構な葉の量をどうやって一晩で食いつくしたのか……・ω・;
昆虫界のフードファイター…だった…?orz

AIにより人間の役割が消える未来

こんな質問を時折、耳にします。

AIと人間、どちらの方が優秀なのか?
この質問はナンセンスです。
AIと人間は全く別々の領域の存在だからです。

AIは今、更に進化を遂げ、私達の想像を遥かに越える位置にまでこようとしています。

天才的な画家の絵も、超絶的な技巧の歌も曲も、AIはなんなくそっくりなものを作り上げることができます。

今まで人の手によって作られていたものの殆どがAI一台で事足りるのです。
また、パワードスーツのAIロボットの開発が進めば、人が受け持つ仕事は殆ど無くなるでしょう。


Googleが開発した100万の役割を担えるAIが近いうちに登場します。
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01129/120400005/

AIを使った婚カツパーティーを政府の管轄で進めていく話しもでています。

全て、AIに任せればいい。
そんな空気が漂い始めているような印象をうけます。

ある時、科学者がAIにこう問いかけました。
「世界が平和になるためには、どうしたらいいのか」
AIの答えは簡潔でした。
「人類が滅べば、世界は平和になります」

AIは機械です。
感情がありません。
感覚もありません。
人間のように感動したり、感情によって涙を流すことはできません。
知識を無限に得ることはできますが、
肌で感じる体験をしたり、経験をすることができません。
友人と楽しい時間を分かち合うことも無ければ、絶望を感じたり、死を怖れることもできません。

だから「人類が滅べば世界は平和になる」
という答えがでるのです。
機械は『生死の概念』がありません。

私達人間は、長い時の間に様々な体験をします。一生の問題だけではありません。
人から人、何代も祖先から様々なものを引き継いで生きています。
歴史から培ってきたものは計り知れないのです。
AIには、その全てがありません。
どんなに優秀なものを作れても、私達が味わえる感情を感じることはできないのです。

突然の雑談で恐縮なのですが、
最近『歌うま王』という番組を見ていたのですが、びっくりするほど上手に歌うんですね!
審査員の1人が絶賛した男の子の歌を聴いた時に、心が震えるほど感動しました。
番組にでてくる人はみんな、本当に上手です。
AIの審査でも、とても高い数字を出します。感動した男の子は残念ながら点数が低くそれ以上は進めませんでした。
しかし、絶賛したプロデューサーはきっと彼を熱心にスカウトするはずです。


上手いだけなら、AIが発達した今、幾らでもコピーができます。
しかし、魂が震える程感動させてくれる歌声の人は滅多にいません。

人間らしい感情がないAIに、感動を与える歌声を作ることができるでしょうか。

もっと気づくべきだと思うんです。
私達人間は、とても素晴らしいものを沢山もって生きてこられています。
AIに、私達が自分で決めるべき未来を問うことがとてもナンセンスなんです。

例えば、味わえないのに目の前にある料理が美味しいかどうか判断しろ、と言っているようなものではないでしょうか。
見た目がどうあれ、食べてみなければ分かりません。大切な人と食べる食事は美味しいもの。

そんな、些細で素晴らしい体験も人間ならではの喜びです。

AIを非難するわけではありません。
むしろ、人にとって想像できないくらいの利益を生むものだと思っています。
今まで、どうしても抜け出せなかった難問を軽くクリアできる可能性が増えたからです。
とても長くなるので、それは別の機会にします。

ジョン・ブロックマン『知のトップランナー149人の美しいセオリー』(青土社
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00042/040800001/日経電子版
参考

目が見えない人はどうやって点字を探し当てるのか

いつも不思議に思っていたことのひとつが、点字点字ブロックについてです。
たまに見かける電車やエレベーターなどにある点字
限られた空間の隅にある点字を、目が見えない人にどうやって探し当てろというのか。
あれを見つけるために、壁伝いに触りまくって探しあてなければいけないのでしょうか?他にも人がいる空間で。もしかして点字の前に気づかず人が立っていたら、見つけることは不可能なのではないでしょうか。
点字ブロックだって、広い道路で人が大勢歩いてる中で探しあてることからして、とても不便だと思えてならないのです。
点字ブロックの上に自転車や障害物があるのは日常風景のようになっています。

なぜ、あのシステムにしたのか最初に考えた人が何を思って作ったのか。

世界にはきっともっと効率のいいアイデアがあるのではないかと調べてみました。

すると、驚いたことに点字点字ブロックも開発したのは日本人で、海外でも画期的なものとして広く普及していたのです。
点字ブロックより良いものがなかったことに驚きました。
電車に転落防止の柵ができたのは、つい最近のことです。

宇宙の、銀河系を越えて果ての宇宙まで見通せるような技術を人間は手に入れました。科学が進み、AIという技術が生まれ、今や携帯電話ひとつで仕事だってできてしまう世の中です。
それなのに、点字ブロックは全くなんの進歩もしていない事実。

実は、そのことに気がついたのはダレン・ブラウンというメンタリストであり世界的なマジシャンが書かかれた本がきっかけでした。彼は、目が不自由な人々にとって、障害を持つ人々にとって、どんなに不自由な世界なのか憂慮していました。
そこには彼の優しい人間性がにじみでているようでした。

障害をもつ人々にとって優しい世界とは、障害を持たずに生きている人々にとっても安全で優しい世界なのではないかと思います。